随意随想

「熱中症にご用心」

大阪体育大学教授 大塚 保信

この季節、早いところでは秋の虫が涼やかな音色をそこここで奏でているかもしれない。しかし9月号の原稿に筆を走らせているこの時期は、何時も茹だる暑さとのたたかいである。ことに今年の暑さは半端ではなかった。家の中に居ても熱中症にかかり大事に至った高齢者もあったと報道が繰り返し伝えたほどである。打ち水をした路地で、縁台床机に腰をかけ、夕涼みがてら井戸で冷やしたスイカに舌鼓をうったあの頃の懐かしい日本と違い、地道はアスファルトで固められ、どの家からもクーラーの熱風がおかまいなしに外に吐き出されている今の日本は、亜熱帯を通り越して熱帯地域に変化したのではなかろうか。

しかし、暑けに罹り体調を悪くするばかりが熱中症ではない。ひとつのことに目を奪われて、周りが見えないほど熱心に取り組む姿や考え方も時としてある種の熱中症をよびおこすものである。パソコンやゲーム遊びに夢中で一日の殆どを費やしている若者や、タレントや俳優を海外まで追っかけまわして悦に入っている中年女性もある種の熱中症に罹っていると言ってもいいかもしれない。かくいう私も、今何かと話題になっている大相撲であるが、その昔ひいき力士の栃錦が負けた日には、晩御飯も食べなかったほど熱中症に罹っていたものである。

しかしながら何といっても今年の上半期世界中で一番感染した熱中症は、はじめて南国アフリカの地で開催されたサッカーのワールドカップではなかったか。夜遅く、いや朝早くまでテレビにかじりついておられたお方も多かったはずである。いまでは人気スポーツのひとつに数えられるが、若い世代を除いて、昔から多くの日本人がサッカーにそれほど熱狂的であったとは思われず、多くはルールも詳しく知らないにわかファンであったように思う。まして大会前の日本チームの戦績は芳しくなく大会本番での期待も薄く、盛り上がりに欠けていた。

丁度その頃、これからの日本の行く手を見極める大切な参議院議員選挙を控えている最中ではあったが、日本チームが予選を突破し決勝リーグに進むと選挙報道は片隅に追いやられ、連日テレビや新聞が過剰なまでに取り上げ煽るものだから、国民全体がサッカー熱中症にかかった状態でもあった。阪神だ、巨人だとひいきチームを持ち上げ、相手チームを徹底して攻撃しあっているプロ野球ファンもこの時ばかりは呉越同舟で笑顔がたえない。日本を出るとき酷評されていた監督も帰国時には手のひらを返したように、さながら凱旋将軍の扱いである。スポーツ観戦はファン同士が気持ちをひとつにして「行けいけドンドン」と声援を送るから楽しいのはよく分かるけれど、一方的に過熱する熱中状況にも少々うんざりもした。

テレビ中継を見ていなかったと言うと、白い目でにらまれ、まかり間違って対戦した相手選手の素晴らしいプレイを賞賛しようものなら、そんな人間はとっとと向こうへ行ってくれと仲間はずれにされてしまう始末である。すこし飛躍し過ぎかもしれないが、ふと、70年ほど前「右むけみぎ」で見事に思想統制され、国民の殆どが同じ方向に向けて突っ走っていたあの忌まわしい戦争さなかの国民感情が頭をよぎった。当時は皆んなと同じように考え、行動しなければ「非国民」と罵られることもあった。たかがサッカーごときことで大仰なとのご批判もあろうが、今の時代、つまらぬデマや一方的なマスコミ報道によって一夜にして世情が変わる浅薄さ、不気味さを苦々しく思うことがしばしばある。バナナが体に良いと人気テレビ番組が伝えれば、一夜にして店頭からバナナが姿を消し、ポリフェノール成分が多量に含まれていると言えばビールに代わって赤ワインが晩酌に登場する。

周りの熱中した雰囲気に飲み込まれず、冷静に少し違った角度から物を見たり考えれば、もっと別の判断や魅力ある世界を発見する楽しみがあるのに、周りが見えなくなるところに熱中症のこわさがある。とにかく熱中症に罹らないようにするには、水分をこまめに取り涼しいところで体を冷やすことが肝心で、そうすれば健康状態も保たれ正常な判断力も損なわれることは無いようだ。現にワールドカップで世界中がカッカと熱をあげ優勝を争っているときに、「予言ダコ」で有名になったドイツのパウエル君は、多くの評論家や専門家の予想や意見に従うことなく、涼しい水槽の中でたっぷり水分を吸い込んで、自国のドイツ国民にも遠慮することなく、冷静に自分の判断でスペインの優勝を256分の1の確率で的中させたではないか。

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