随意随想

「私たちができることは自分たちでしよう」

桃山学院大学教授 石田 易司

大阪府下の某市で高齢者の実態調査を実施した。平和にのどかに楽しく高齢者は暮らしているように見えるが、実際には驚くべき事実がいっぱい出てきた。

住民基本台帳を基に、65歳以上の一人暮らしと高齢者夫婦二人暮らしを対象に選んで調査用紙を配布したはずなのに、家族との同居が13%もいる。おそらくどの町でも同じなのだろうが、住民基本台帳上は一人暮らしだけれど、実際は…という人たちなのである。生活保護の受給も介護保険料の支払いも、家族の収入が基本になるので、世帯分離をして、本人の収入は年金だけという形にした方がいいという判断なのだろう。つまり、公の介護保険財政より、個人の損得を優先させた考え方だ。中には本当に生活に困っている人もおられるのだろうが、一部のこうした「自分勝手な人」のせいで、公の財政が破たんしかけ、増税につながっていく。

大阪市の場合そんなことはないだろうが、この調査の過程で出てきた老人クラブ名簿のいい加減さも、問題にしなければならない。補助金をもらうために必要な人数を集める必要から、住民基本台帳に乗っていない人が続々出てくるのだ。この台帳が生活の実態を表していないのは、先にあげたとおりだが、こうした幽霊会員を放置しておくと、クラブの存在そのものが住民に理解されなくなってしまうだろう。この例も自分たちと公の関係の問題である。

そうした生活実態とは別に、高齢者の健康問題は深刻だ。年を取ると何かしら不調が出てくるのは仕方がないと思うが、たとえば、50%の人が高血圧、1年間の入院経験が14%、84%が毎日服薬、1年間の転倒経験が22%という数字は高齢者の健康問題の深刻さを裏付ける。高齢者は健康不安の中で暮らしているのである。

その結果、公共交通を使っての外出ができない(していない)人31%、銀行の預貯金などの金銭管理をしていない人21%などのように、日常の生活機能が衰えてくる。15分の距離の歩行が辛いという人が21%もいる。しかし、地域によっては15分の圏内に病院もなければ、スーパーマーケットもないというところもある。病院もスーパーマーケットも営利事業体としての存続を考えると、市の中心部に集中するのである。社会が不況になると、それまで市の隅々にあった営利事業体が周辺部分からどんどん撤退していくのである。

だから、介護保険などの制度的な支援が必要なのだが、介護保険制度や高齢者の虐待問題の窓口になる地域包括支援センターの認知度が36%しかない。介護保険の直接の対象者ですらこの数字なのだから、若者も含めた市民全体で考えると、さらに一段と認知度は下がるだろう。この市では地域包括支援センターは2カ所しかないが、市内に9カ所もある老人福祉センターですら51%の認知度で、その利用者に至っては12%にまで数字が落ち込んでしまっている。災害時の安否確認制度は7%の認知度しかないのである。制度があっても、市民の生活にしみこんでいないのである。

長々と数字を並べたのは、こうした実態を私たちがほとんど知らないということだ。だから、仕事のない、毎日が日曜日の高齢者は平和に、のどかに楽しく毎日を過ごしていると思い込んでいる。だから、知ってほしいのである。

先に挙げたこの市の災害時の安否確認制度はできて10年たつ。所管部署に確認すると、毎年、市の公報で知らせ、希望者を募集をしていると言う。担当者は公報に載せてさえいれば、それで役割が果たせたと思っているのである。ちなみにこの市では介護保険の対象者が約3万人いるのだが、この安否確認制度の登録者は10年たっても100人にも満たない。もっとひどいことには、登録制度はあるけれど、もし大災害が起こってもその登録者を救出できるシステムはないのである。民生委員や福祉委員は地域に存在するけれど、大災害というのは自治体で働く公務員も含め、周辺の住民がみんな被災者になって、人を支援できる体制はそう簡単には維持できない。

行政任せにしておくと、こんなことになる。行政任せにしないで、私たちができることは自分たちでしようというのが老人クラブの趣旨だと思う。

戦後の日本社会は、地域の問題の解決の多くを行政に依存してきた。お金がある人は企業にお金を払って解決してもらい、自分たちで工夫をして、住民同士協力してということを忘れてきた。公と私について、もう一度考えてみたい。

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