随意随想
「残されし物の価値」
大阪ソーシャル ワーカー協会会長 大塚 保信
大阪城といえば、太閤秀吉の居城として全国に知られている。しかし大阪市民としてはいささか複雑な心境ではあるが、関ヶ原の合戦以降、明治時代が始まるまで長きにわたり支配してきたのは徳川幕府である。大阪城が本当に大阪市民の手に戻ったのは、わずか半年間で目標額の150万円(現在の金額で600億円から700億円に相当)集まった市民の寄付によって昭和6年に竣工された現在の天守閣であろう。
ところで、いまも大阪城天守閣の入口左手に「残念石」と銘うった大きな二つの石が置かれているのをご存知だろうか。残念石というのは、徳川幕府の命令で元和6(1620)年から始まった大阪城修復のとき、石垣などの用材石として割りだされたが、使われることなく残念ながらその念願が叶わなかった石のことである。向かって右側にある大きめの石が筑前黒田長政の石切丁場で見つかり、左側が豊前細川忠興の残念石である。当時の大阪城の修復は徳川幕府が西日本の64藩の大名に命じて築かせたが、修理で撤去された石を含み数万個も見つかっているそうである。ほとんどの石には担当大名の家紋が刻み込まれており、大阪城のふもとに一部展示されているからお気付きの方もおられよう。大阪城の再築、修理の時には廃城になった京都伏見城の城石を再利用するため、淀川を下って運んでいる。ところが運搬船から多くの石が転落した。それらの石にも大名家の家紋が刻印されていて、これもまた残念石として毛間の閘門(けまのこうもん)の一角に保存展示されている。
毛間は大阪市都島区の淀川河川に位置する地域で、この地で「春風や、堤(つつみ)長うして、家遠し」と詠んだ俳人、与謝蕪村の生誕地でもある。閘門とは、水位の異なる二つの河川の高低差を調整して船を安全に通過させるための施設である。京都の南禅寺近くにあるインクラインもよく似た役割をもった施設である。琵琶湖に源を発する淀川は大雨でたびたび氾濫し、その影響で桜ノ宮や中之島といった大阪の中心街を流れる大川や堂島川も何度か氾濫をおこした。そこで毛間の閘門は、市街に流れ込む水量を調節する役目も担っていたのである。明治29年に着手されたわが国最初の大河川事業で、水量調節の淀川改修工事の時に江戸時代の運搬船から転落した多くの残念石が引き上げられた。毛間の閘門はそんな重要な役割をもった施設とはつゆほども知らず、言葉のひびきから、口にするのも恥ずかしかった幼い日の記憶がある。
肝心な時に役に立たなかった残念石ならば、その場で砕いて処分されていても仕方なかったものが、よくぞ長く保存されていて、今では歴史の生きた証人として立派な役割を果たしている。国宝級の遺産もさることながら、見捨てられそうな遺物にあらたな価値を発見する喜びはまた格別である。
そういえば、我が家にも長年保存している古い書物や資料がたくさんある。一昨年大学を定年退職した際、研究室から引きあげてきた書物や資料が加わり書斎はいま足の踏み入れ場もない状態で、残りはいまもガレージに山積みにしたままである。そのため、この2年間は整理に多くの時間を割いてきた。少し前頃から「断捨離」という言葉が注目を浴び、身の回りにある不用なものを思い切って捨て去り、すっきりした生活を楽しもうという提唱がもてはやされている。ようやく私も重い腰をあげ整理にとりかかったが、いざ書物や資料に目を通すと、「この資料は残しておけば、いつかきっと役に立つにちがいない」「貧乏な学生時代になけなしのお金をはたいて手にいれた本だ」の思いが先に立ち、つい女々しく、いや男々(めめ)しくため込んでしまいなかなか捨て去ることができない。大阪城と毛間の閘門で残念石を目にしてからは一層そんな思いが強くなった。保管する空間にも限りがあり、「不用なものは捨ててはどうですか」と妻にせかされるが断捨離は一向にはかどらない。
整理整頓に関しては、とても彼女にかなわない。ずいぶん昔に妻に預かってもらっていた書類や持ち物でも、私が必要とするときには瞬時に目の前に差しだしてくれる神業をもっている。もし、整理学博士という学位があるならば、真っ先に私から授与したいと思っている。それにひきかえ私はといえば、小学校時代から明日の時間割に合わせて持ち物を準備することさえ面倒だったので、いつも全科目の教科書を詰め込んで、毎日重たいランドセルを背負って通学していた名残りで、今でも整理整頓は全く苦手である。必要な書類に限って山と積まれた資料に埋もれて見つからず、あたふたする毎日である。しかしながらどう考えてみても、大阪城や毛間の閘門にある残念石のように後世に残すほど価値のある物は私の書斎から出てきそうもない。そろそろ本気を出して不用なものはさっぱり捨て去り整理整頓しなければ、私自身が不用なものとして妻から見捨てられ断捨離の憂き目にあうかもしれない。