随意随想

「歴史の評価」

桃山学院大学教授 石田 易司

歳を取ると、自分というものが何者なのかと考えるようになる。家族や仕事、趣味や好物など、自分らしさを裏付けるものはたくさんあるが、先祖というのもその一つだろう。歴史というものが急に好きになる。京都や奈良のお寺を回ったり、博物館の歴史展示が見たくなったりする。

そんな私に合わせてか、あるいは、同じようなことを考えていたか、また、健康が気になってきたこともあって、その古寺などを訪ねるハイキングに妻も付き合ってくれるようになった。春から奈良の山の辺の道やら、南山城の一休寺を訪ねたりしている。千数百年から数百年も昔の人が急に身近になって、聖徳太子も一休さんも懐かしい。この分では命ある限り退屈はしないだろうと、リタイアした後の暮らしが楽しみになってきた。

今年は大坂の陣400年ということもあって、遠くの町だけでなく、大阪の歴史にも愛着を感じる今日この頃である。これまで気にもしなかった近くの神社に、真田幸村の遺品があるということを知って訪ねても見た。また、自分の住む集落の名前が、建武の中興時の楠正成の赤坂城と同じ名前は都合が悪いと改名されたなど、知らなかったことも意識すれば知れるようになった。よく散歩に行く神社にその由来が書いてあった。

そうして、近隣を歩いたり、歴史ものの本を探して古本屋を覗いたりしていたら、戦前の教科書の中で「軍神」というものを書いてある本に出会った。実は私の祖父の弟が日露戦争時に戦死しているのだが、1年だけ軍神として教科書に載ったということをうっすら覚えていて、思わずその本を買ってしまった。

小学校1年生の時、田舎で暮らしている祖母が亡くなって、その葬式に行ったとき、ひときわ大きな墓があった。その墓の人のことを親戚の年寄りたちが噂していたのを覚えていたのだ。彼のすぐ後に「肉弾3勇士」が新しいヒーローとして取り上げられて、たった1年で終わってしまった軍神なのだが、我が家にとってはものすごいエピソードだったのだろう。

しかし、私もそれから数十年、田舎の墓を詣でることもなく、すっかり忘れていたことだったのだが、この本を見て突然思い出して購入してみた。残念ながら、我が家の大叔父のことは1行も書かれていなかったが、日清日露から先の太平洋戦争までの間に、軍国主義の教育も変化を見せ、毎年のようにその内容も、取り上げられる英雄も変化し、軍国日本の教育方針が目まぐるしく変わっていったという内容の本だった。

私は「石田」という苗字なのだが、時代の流れに合わせてその評価が変化していった人として有名な「石田三成」と同姓なのである。江戸時代、関ヶ原の戦いで徳川家康に抵抗した人として、極悪人にされた三成さんが今も私たちの頭に焼き付けられている。武士として戦争もできない、頭でっかちの意気地なしが一般的な三成像なのだが、最近その評価が見直され、頭の良さだけを強調するのではなく、義に厚い、まっすぐな人というイメージで彼を高く評価した本がたくさん出版されるようになった。

インターネットというのは便利なもので、本を探そうとすると、石田三成と入力すれば、あっという間に数冊あげられ、注文もその場でできて、2〜3日で配達もされてくる。

そのいくつかの本の中に、彼の居城であった佐和山城は、江戸時代に破壊されつくされて、今は跡形もないと書かれていて、さびしくなった。イメージだけでなく、彼のにおいのするものは徹底的に消されてしまったのだ。それが歴史上の評価というものだろう。

彼以外に歴史上に出てくる石田姓は、木曽義仲を打ち取った石田為久が平家物語に出てくるくらいだが、本当かウソか、三成の先祖であると言われているらしい。私の父は「為之助」と言い、歴代この「為」のついた名前の人がたくさんいるので、もしかしたら、三成さんとは親戚だったかもしれない。三成の子孫は江戸時代も殺されずに生き延びていたらしいが、石田という姓は名乗れなかったという。我が家も江戸時代、石田は都合が悪くて、同音の「関」という苗字に改姓していたらしい。そして、明治になって晴れて「石田」を名乗れるようになった。

こんなことに興味関心を抱くのは、年を取った証拠だと言われそうだが、こうした知的好奇心がある間は、元気に暮らせそうだと思う。そして、私の死後の評価はどうなのだろうと、悩ましくなった。

随意随想 バックナンバー